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(No.320)2010年9月3日

『「阿久根市長―暴走」から考える』

何日か前の中国新聞・社会面に『市長止まらぬ「暴走」』阿久根市長問題の記事がありました。総務省・県「強制的な介入困難」、反市長派「リコール運動加速」とあります。
 
皆さんもご承知のとおり鹿児島県阿久根市の市長さんが乱発した専決処分で市長と市議会が対立、結果的に阿久根市市民が被害者になっているのが現状ではないでしょうか。
 
市長(行政)と議会は二元代表制としての役割が双方にあるはずです。そのことが地方行政と地方政治に課せられた大きな役割だと思われます。その基本のルールが壊されたのが阿久根市長の専決処分の乱発です。

記事の中にも「市長の『暴走』に、地方行政を所管する総務省や県も『法律の想定外の事態』と苦り切る」とあり、生活の最前線を担う市長がルール違反をすることは絶対に許されないのです。

似たような事例が広島市でもありました。それは、「再議」事件です。

平成22年3月29日、平成22年第1回広島市議会定例会において修正議決された「第1号議案平成22年度広島市一般会計予算」については、次の理由により異議があるので、地方自治法(昭和22年法律第67号)第176条第1項の規定により、再議に付する。

理由は「第1号議案 平成22年度広島市一般会計予算」の修正議決では、2020年オリンピック招致検討事業、折り鶴の保存・展示及び2020ビジョンキャンペーンの展開に係る予算が削除されている。

このうち、2020年オリンピック招致検討事業については、市民の十分な理解が得られておらず、また、本市が置かれている厳しい財政状況の中で、膨大な経費をかけて開催することは非常に困難であるとの理由から、予算が削除されたものである。

しかしながら、同予算は、オリンピックを招致するための予算ではなく、あくまでも開催の実現可能性を検討し判断するための予算である。すなわち、事業費等を盛り込んだ具体的な検討資料として基本計画を策定しようとするもので、専門的な観点からの調査も必要となることから、基本計画策定等を計上するものであり、是非とも再考していただきたい。

次に、折り鶴の保存・展示のうち、折り鶴ミュージアム(仮称)のあり方の検討に係る予算については、大規模な施設の整備を視野に入れた検討について市民合意が十分に得られているとは考えられないとの理由から、予算が削除されたものである。(以下省略)

との理由で、平成22年度広島市一般会計予算の再議を諮られました。

「再議」とは、「議会で行った議決に対し異議があるとして、又は議会で行った議決若しくは選挙に関し議会にその権限がないあるいは法令違反等があるとし、若しくは議決が収支執行不能である等として、長が議会に審議又は選挙のやり直しを求めることをいう。拒否権ともいう。」ということです。

しかし、議会では本来の民主主義の理論として、通常は過半数をもって「可」とするのが慣わしです。市長の強権である再議を提案決行されれば、出席議員の3分の2以上の同意が必要となり、裏を返せば3分の2以上という議会制民主主義のルールに反した独裁的・独善的なハードルの高さの議論に転化した事件です。ある意味、議会を無視した阿久根市長の専決処分と同じ手法のように思われます。

最近、議会改革が頻繁に叫ばれていますが、私流の議会のあり方を述べさせてもらいます。

■市長と議会の関係

市長と議会はよく車の両輪に例えられます。市長は自治体の長、一方の議会は住民の代表です。「市長」と「議員」の両方を市民(有権者)が直接選挙によって選ぶことから「二元代表制」と呼ばれます(国政の内閣総理大臣は衆参両院で議員が選挙で選ぶ「議院内閣制」です)。

市長と議会とはチェック・アンド・バランスの関係にあり、二元代表制のもとでは、形式上では市長が「与党」、議会が「野党」となります。議会は、市長や行政が公正に仕事をしているか、偏りすぎてはいないか、本当に必要なものか、運営に改善すべきところはないかなど厳しくチェックすることが求められます。議会は住民の代表として、市長や行政がしていることをチェックするという役目を担う立場にあるのです。

しかし、現在の広島市のように議会の中に無条件で「与党」として活動する者が多くなると、議会の議論が活性化しなくなります。また与党的立場として終始する者やその人数が固定化してくると、議論をする前から可決されるか否決されるかが既に決まっていて、予め結果がわかっている環境のもとで質問や議論をすることになります。市民から見ると、議会内での権力争いをしているだけで実質的な審議をしているようにはみえなくなるのです。

実質の広島市議会は活発で有意義な議論が行われています。

「市長vs議会」という緊張関係がなくなってしまっては、監視・監督するという議会の本来の役目が果たされなくなります。人間は誰しも、緊張する環境がなくなると、楽な方楽な方に流されやすくなりますので、良い結果が生まれることにはなりません。

市長と議会はよく車の両輪に例えられていますが、市長の車輪のほうが比較にならないほど大きくて強い、アンバランスな車輪なのです。バックアップする組織の規模や与えられた権限など、市長の方がはるかに大きく、議会と行政が対等な関係にあるとは到底言えないのが現状なのです。

広島市を例にとりますと、行政部局の予算規模は約1兆2千億、職員数は1万2千人に対して、議会部局の予算規模は1億円、議員55人と職員40人です。

よく例えられる『車の両輪』は両輪でも、「左・右」の両輪ではなく、「前・後」の両輪なのです。しかもFF式(前輪駆動)で、ハンドルもエンジンも直結している前輪に、後輪は引っ張り回されるようなかたちにならざるを得ないのが、現在の法体制なのです。




市長と議会の関係においては、これを左右の両輪としての関係になるような人的・財政的な法律の整備が早急に必要なのです。

次回、改めて議会事務局と議員のあるべき姿を述べます。

■議会と市民との関係

2009年12月〜2010年2月にかけて広島修道大学の学生が行ったアンケートによれば、「お住まいの{市、区、町、村}の政治には満足していらっしゃいますか」という質問に対して、広島市内在住でなおかつこの質問に無回答であった者(4人)を除いた510人の回答をみると、「大いに満足」「やや満足」とした人をあわせた『満足派』と、「あまり満足でない」「全く満足でない」とした人をあわせた『不満派』とが、ほぼ半々という結果でした。

他の全国世論調査をみると、満足派32.5%、不満派60.5%となっています。
不満と感じる理由は
「議会や議員の活動が伝わらないから」53.3%
「行政のチェック機能を果たしていないから」33.2%
「議員のモラルが低いから」32.5%
「議会内での取引を優先して審議が不透明だから」29.3%
「議会の政策立案能力が低いから」18.6%
となっています。

また、「あなたの住む地域の市区町村議員は、住民の意思を反映していると思っていますか」という質問に「反映している」34%に対して、「反映していない」が51%という厳しい結果になっています。

これらから、議会や審議の透明性、住民との乖離、議会の監視力、政策立案力、議員のモラルに疑問をもっていることがうかがえます。

これに比べると、広島市での調査結果は満足派が多くなってはいますが、調査環境が同じではないことを考慮し、半数は現状に不満があることを認識すべきです。

では、何をどのように改革するのでしょうか。

まず前提として、議員は住民の代表です。議会・市政と住民をつなぐ大切な役目を担っているのです。真に議会が「市民の市民による市民のための議会」として機能するためのポイントは3つの柱として集約されます。

それは、@議会からの情報の発信、A市民からの情報の収集、B市民と市政の窓口の機能です。

市民からは、@は、新聞やテレビなどマスコミを通しての間接的なものがほとんどです。マスコミから流される情報はすべて『真実』であり、それを疑わないことが現実の姿ではないでしょうか。議会・市政の情報発信はマスコミが左右するといっても過言ではないのです。逆に言うとマスコミが議会や市政の情報を左右する巨大権力を握っていると言っても過言ではなくなります。メディアによって、部分的に切り出された『市民受け』する情報だけが、一方的に流され、これだけが『真実』として『現実』として受け止められているのが現状ではないでしょうか。

そのようなマスコミを介さずに議会から直接的に発信されるものは、市政・議会の広報紙やホームページなどがあります。しかしこれらが市民に理解されやすいものであるか、市民に直接届きやすいものであるかを早急に再検討する必要があると思います。

またホームページや個人ブログなどインターネットを用いた手段の特徴として、情報の受け手が自らの意思をもって探してくれなければ成立しない手段であり、興味や問題意識の高い人でなければ閲覧しないという難点もあります。

Aは、議会は住民に関する情報を執行部に依存していることが多いが、はたして執行部からの情報だけで議会自らの政策形成が十分であると言えるのか、また執行部と対等に渉り合うのに十分だと言えるのか、という問題があります。執行部とはひと味違う政策を提言するのであれば、その前提となる情報を独自に収集することが必要です。

Bの窓口機能は、「開かれた議会」を実現するために住民との接点となる窓口を広く設ける必要があります。これまでも、議員一人ひとりが住民との接点としての窓口機能をもっていますが、議員一人で対応できる範囲には時間的にも物質的にも限界があります。

議員の個人事務所に窓口として対応する者を常駐させるとか、議会全体の窓口として議会事務局がその役割を新たに担うことが考えられます。しかし単に窓口なるものを設置しただけでは、住民が議会に関心をもってはくれません。住民と議会とを近づけるためのさらなる仕掛けが必要になってくるのです。

以上のように様々な機能と組織を新しい感覚で充実させることが求められていると考えています。

歴史的には、議員は「名誉職」として特権階級的な位置づけがあった時代もあるようですが、これからの時代の議員は名誉ではなく「市民性」と「専門性」の両方の要素をあわせ持つマルチ人間的な要素が必要です。

具体的には、市民の立場にたって、
@市民と協働しながら、市民の提言を政策化する調整・提案能力
A地域をどのように方向づけるかといった地域デザインを構想・提案・議論する能力
B自治体を監視し、的確に指摘できる計数能力
が必要です。

また、現状では、多くの懸案事項を集合体で議論する議会では、市民と同じ目線で歩む市民感覚とともに、執行機関とわたりあえる専門的能力が必要になります。

さらに時代が進むにつれて、市民の生活スタイルや価値観は多様化し、専門性はますます個別化していきますので、議員活動の内容は「幅も広く、奥も深く」なっていく方向にあります。この拡大しつつある両サイドを、人間がひとりで網羅するには自ずと限界が生ずるのです。

こうした背景の中、市議会議員には国会議員のように、政策秘書や制限なく調査できる政務調査費、文書広報費等のバックアップ体制が保証されているわけではありません。

現在の政治情勢のもとでの中央集権から地方分権の流れの中では、真に「市民の市民による市民のための議会」となるためには、現在のような体制では限界があるのです。

地域全体が自主的・能動的にかかわれるよう、議員活動と議会事務局機能をもっと充実させなければ、地域自らで地域を動かし、地域を守ることができなくなります。特に私たち政令市議員は責任の重さに耐えられる自覚が必要となってくるのです。

しかし世論は、マスコミから流される一部の情報(それもマイナス情報)のみから判断して「議会は何をやっているかわからない」「そんなに議員って必要なの?」「税金の無駄づかいでは?」という一方的な発信で、議員定数削減とか経費削減という風潮に傾いていく傾向が現状なのではないでしょうか。

多様化する地域住民の声を細やかに吸い上げるためには、議会は社会の縮図であることが望ましいと言われます。例えば女性、若者、高齢者、一般のサラリーマン、障がい者、教育者、医療や福祉の従事者などなど、さまざまな多様な属性の人がかかわり、また少数意見の人もかかわれるよう、門戸を広く設けたほうが、より現実の社会を反映できるのです。

特定少数での閉鎖的な市政運営の方法と、門戸を広げ実社会により近い市政運営を行う開放型運営があるはずです。しかし、現在の世論は門戸をせばめる方へと傾いているのではないでしょうか。

議員は初心に帰って、市政発展のため努力することが基本理念だと思います。そして同時に、果たしてどのような市政運営が最良なのか、この矛盾を市民の皆さんに理解してもらう必要もあるのです。

((※追伸(ゲゲゲの女房と思い出のメロディ))

少し前のことになりますが、8月の盆が過ぎた頃、NHKで「思い出のメロディ」をやっていました。私も見たのですが、読者から次のような便りをいただきました。

久々に心が和んだ一夜だった。NHKの思い出のメロディ。昭和の懐かしさに浸りながらメロディに聴き入っていた。

見ようと思ったきっかけはゲゲゲの女房、松下奈緒が司会をするという番組案内があったため。還暦を迎える三宅裕司のコンビも絶妙で、ゲゲゲとは違う意外な一面も再発見だった。

蛇をモチーフにした派手な衣装もさることながら、ピアノの演奏には「えっ!」と感嘆符がついた。ゲゲゲから受ける印象とは全く別物で、刺激的でもあり、魅力的でもあった。

耳に入ってくるメロディは、自分の十代、二十代の確かな記憶の袋に入っているものばかりで懐かさに浸っていた。しかし、同時に今の時代との心の持ちように隔たりを感じないわけにはいかなかった。

昭和の時代の日本の風景が頭を巡り、がむしゃらに働く日本人、海外のメディアからはエコノミックアニマルと揶揄されながら、それでもがむしゃらに進む姿がそこにあった。

子どもは勉強、勉強の毎日で、受験地獄の言葉が飛び交う。大人は世界に追いつけ、追い越せとただひたすら働いていた。ただ、海外のメディアの表現とは裏腹に、日本人は自らのため、家族のため、自国の将来のためという気持ではなかったか。

翻って今の日本はどうか。既得権益を守り、自己の権利主張ばかり唱え、他人ばかりか、家族のことさえも考えていない。100歳以上高齢者の不明者の続出もこれを物語っている。

政治もその場限りの主張ばかり。将来のこと、次世代が受ける経済的、社会的環境のことは誰が考えているのかと懐疑的になってくる。

今宵の思い出のメロディは昭和の時代の活力を感じた。日本を愛し、日本人の誇りを持って邁進していた。親を捨てることなどあり得ないし、我が子の将来を案じた、がむしゃらさが見て取れた。ゲゲゲのように支える者もいた。

将来を見据え、子どもたちが、未来の世代が日本に生きてよかったと、そういう世界にしたいものだと思った一夜だった。