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(No.251)2008年11月18日

『書籍の中から(Part1) 〜ノーベル賞狙うなら
『二流国』で〜/〜『疑う力』の習慣術〜』

最近読んだ本の中で、面白いなと感じたものがありましたので、紹介させていただきます。皆さん方には「こんな発想やこんな想いがあるのか」とか、あるいは「施策の底流にはこんなことがあったのか」と改めて感じていただければと思っています。




〜ノーベル賞狙うなら『二流国』で〜

はじめに紹介させていただくものは、「AERA」(2008.11.3号)に掲載されていた「養老孟司の大脳博物館」の「ノーベル賞狙うなら『二流国』で」と題したコラムです。一部を抜粋して紹介します。

日本人4人が同時にノーベル賞を取ることが決まり、大騒ぎになった。とはいえ、どれも30年以上前の研究が対象だ。つまり、ものづくりに徹していた時代の研究に対する勲章なのである。……

ものづくりとは体を使うことである。そうした産業は、地味で「二流」と見る向きもあるだろう。……

今回の危機を通じて、金融というビジネスがいかに危ういものかが露見した。日本人はどこかで思っている。体を使わないで銭を得るなんてえげつない、と。

いまではすっかりものづくりが廃れ、金融やITにシフトしたアメリカだが、……戦後、アメリカの科学を支えたのは生粋のアメリカ人よりヨーロッパからの難民だった。後に続いたのが日本人。

ノーベル賞が欲しいなら、日本はものづくりに徹することだと私は思う。

「俺たちは二流でいく」と腹をくくることである。

このコラムを読んでいて、真っ先に思い起こしたことがありました。それは、現在の広島市長さんの行動なのです。市民の中での話ですが、「現職の市長でいる間に、ノーベル平和賞が欲しいという名誉欲の塊りで、今日はアメリカ、明日はヨーロッパと、毎年、毎年、平和行脚の繰り返しという有様はいかがなものかな」といった声が聞こえてくるのです。

確かに、広島市という地方都市が、人類史上最初の原子爆弾による惨禍を体験したという現実を背負っている都市であるということがあったとしても、戦争のない、平和な世界を実現することは万人の夢であり、このことは国家が担わなければならない施策ではないでしょうか。

広島市は国家ではないのです。国家が担う施策と地方都市が担う施策は自ずと違うはずです。国家ではない、地方都市である広島市の行政に課せられた責務は、市民が安心して、安全に、その上、すべての面で豊かに暮らせることができる都市を創ることではないでしょうか。

特に、今日のように、世界的な経済、財政危機に襲われている時には、地道に地方行政を正しい方向へ導くことに心血を注ぐことが、行政を預かる市長としての一番重要な、唯一の仕事ではないかと思うのですが、皆さんはどのように感じられますか。




〜『疑う力』の習慣術〜

次に紹介するのは、和田秀樹著の「『疑う力』の習慣術」(PHP新書311)という本です。

著者の和田秀樹氏は、東大医学部卒業後、東京大学附属病院精神神経科助手等を経て、現在は精神科医のようですが、今流行のハウツウもので、内容紹介にも「『疑う力』があれば、新しい発見をすることができる。リスクに備えることができる。対人関係がうまくいく。人生のビッグチャンスをつかむことができる。学校では教えてくれないノウハウを満載した和田式勉強法の最新バージョン」と書いてありました。

今回は、この本の中で、特に、今日の広島市の職員に必要ではないかと感じた箇所を紹介させていただきます。まず1点目として、「第二章 何が疑う力を奪うのか」の中の「『権威』と疑う力」という項では、次のようなことが述べられています。

どんなに権威のある人の意見でも、それが100%正しいわけではない。権威のある人の意見は正しく、それ以外の人の意見はまちがっているというように、「100かゼロか」、「白か黒か」で判断してしまいがちだが、権威のある人の意見の中にも、正しい部分と間違っている部分が「八対二」あるいは「七対三」のような割合で存在している。その人の意見の何割を正しいと考えるのかが一番重要なポイントだ。デジタル方式で、白か黒かでとらえずに、疑う力を発揮して、アナログ方式でグレーの部分を読みとるほうが、判断の誤りが少なくなるだろう。

また、同じ章の「『正義感』と疑う力」の中では

たとえば、権力の側の人よりも、左翼の人たちのほうが自分の主義主張に対して疑う力を持っていないことが多い。自民党の人たちは、自分たちがある程度偽善者であるとか、自分が有権者に儲けさせてもらっているということを認識していることも多いから、自分の意見をコロコロ変えたりする。昨日の敵どうしが政策で合意して手を結ぶことも多い。「昨日まで言っていたことと違うじゃないか」と批判されても、「状況が変わった」などと言って、それを恥じるようなことはしない。

それに対して、左翼の人たちは、自分たちが正義の主張をしていると考えているから、自分たち自身を疑えなくなってしまっている。時代に合わなくなっても従来と同じ主張を続け、その主張をコロコロと変えるようなことはしない。権力側の人たちよりも、筋は通っているのだが、自分自身に対して疑う力を持たないために、世の中の流れから取り残されてしまうことも少なくない。

おおむね、自分こそが正義だと思っている人は、自分を疑う力を奪われてしまっているようだ。

とありました。

例えば、行政側から提案した施策が、100%正しいとは限りません。そのために、監査システムがあり、議会があるのです。為政者も自分の主張が絶対正しいとの感覚は改めるべきであり、議会側の指摘も謙虚に聞くべきだと思います。

また、「第四章 疑う力が創造性を養う」の中の「官僚には無理難題を与えよ」という項では、

日本の官僚たちは前例主義ばかりとっていると言われるが、彼らに問題解決能力がないのかというと、私はそうは思わない。彼らは与えられた問題は、きちんと解決する能力があると思う。優秀な官僚たちは、おそらく普通の人よりも問題解決能力は高いだろう。

では、何が足りないのかというと、問題発見能力である。前例や、日常行っている業務を疑おうとしないために、問題が発見できないでいるのだ。

しかし、これは官僚という職業にとってある意味で当然のことだ。官僚は政府与党(広島市の場合は市長)が決めたことを確実に具現化するのが仕事だからだ。官僚が自分で問題を発見して勝手に政策を進めてしまっては、まさに官僚独裁である。むしろ、問題なのは、官僚たちに対して「よい問題」を与えない政治家(為政者)の側にあるだろう。

……新しい問題を与えるのが政治家の役割だ。無理難題ではあっても、そのやり方を考えることが官僚の仕事である。

それでも官僚が「無理です」と抵抗したら、「それならば、君には辞めてもらう。トヨタからそれをできる人を連れてきてやってもらう」というような感じで、官僚に脅しをかけるくらいのことも必要だろう。 中部国際空港建設では、トヨタからの人材を入れることによって、大幅に建設費を削減できたという実績があるのだから。そのくらいのことを言ってもかまわないと思う。

実際、民間と公共団体では、あまりにも論理が違いすぎる。

(注:アンダーラインを付した箇所は追記したものです。)

とありました。

行政職員は、日々、金銭を扱い、企業経営の根幹である利益を追求するという訓練はされていません。そうした中で、市長として、真剣に広島市の財政の危機を感じているのであれば、例えば、民間企業からでも、節約・倹約、組織の合理化、人員整理等々、経営の合理化のプロを雇用された方が、広島市における真の行財政改革につながるのではないかと思うのですが、市民の皆さんはどのように感じられますか。