.












私の思い まちづくり・経済・交通 総務・人事 議  会 教育・文化
福祉・医療 平和・交流 その他 総合メニュー

(NO.216)2007年8月3日

『8月6日を前に』

梅雨が明け、真夏の太陽が照りつけ、夾竹桃の咲く季節となりました。今年もまた、私たち被爆者にとって決して忘れることの出来ない8月6日がきます。

この日を前に、例年のごとく『原子爆弾被爆者援護対策に関する要望書』が国に提出されました。被爆62年という年月が被爆の実相を風化させ、人々の思いも被爆者援護から反核、非核へと様変わっている中、実はこの要望書には虚しささえ感じているのですが、それでも大きな期待を寄せているところもあります。

一つは、「多くの被爆者及び遺族は、原子爆弾の特異性により、長年にわたり社会的、医学的、精神的後遺症に苦しみ続けなければならない事情にあります。また、被爆者はその高齢化が一段と進み、ひとり暮らしや寝たきり等、要介護者が年々増加しております」という一文であり、もう一つは、要望事項の第四にある「被爆実験に関する調査研究及び啓発活動の促進」という項目です。

ここから言えることは、私が以前から申し上げている「老朽化した放射線影響研究所を、一日も早く、広島市が放影研移転のために取得したままになっている広島大学工学部跡地へ移転し、被爆者と広島市民や世界中の人々への放射線医療の窓口を大きく広げてほしい」ということです。被爆62年だからこそ、今行動に移すべきなのです。

もう一つ、心から願うことがあります。要望事項の第五の「放射線被爆者医療の国際協力の推進」ということです。広島市には被爆都市としての医療上の実績の積み重ねがあります。それは、米国の放射線影響研究所であり、広島赤十字・原爆病院であり、また、広島大学付属病院や広島市民病院など広島にある多くの総合病院です。被爆医療は全世界でも一番の実績があるのではないでしょうか。

私の叔母は92歳で他界しましたが、70歳という高齢で発病した重度の白血病も、広島原爆病院の手厚い医療のおかげで完治し野良仕事も出来るほどにまで回復したのです。被爆者医療から始まり、人類の最大の『敵』であるガン対策医療までを受け持つのが広島市の置かれている大きな役割ではないでしょうか。

また、8月6日の思いとしては、これも例年申し上げていることですが、世界最初の被爆都市として、あらゆる国の核兵器の廃絶を訴えることが被爆者をはじめとする広島市民の願いであり、8月6日の平和宣言には、アジアの核保有国をも米国を初めとする核大国と同じレベルで扱ってほしいということです。

非核を目的とした平和運動は、あらゆる国の核兵器に反対すべきであり、特に私たちアジア人は、まず足元のアジア地域の非核運動から始めなければなりません。現在、根気強く行われている北朝鮮に対する非核化の話し合いである六カ国協議がいいお手本です。

核大国になる前の核保有の意思が芽生えた時点で、全力をあげてその芽をつぶしていくことが必要なのです。アメリカやヨーロッパへの派手な平和行脚とパフォーマンスではなく、まず、足もとのアジアの核化に目を向けるべきなのです。

最後に、平和公園内の被爆前にあった町名銘板を設置することを強く望みます。五木寛之著『21世紀、仏教への旅』の中国編で、私たちが歴史で学んだ地名『寧波』(ニンポー)の地の記述の中に次のような文があります。

小さな公園の片すみには「道元禅師入宗紀念碑」と刻まれた、小さなモニュメントが立っている。日本曹洞宗の開祖となった道元をたたえて、日本からやってきた曹洞宗大本山、永平寺の代表者が立てたものだ。ひっそりと木陰に据えられたモニュメントは、うっかりすると見すごしてしまいそうだ。試みに公園を通りすぎる地元の人たちに尋ねてみたが、ほとんどの人はその存在を知らなかった。だがまぎれもなく、ここは八百年近く前に道元がおり立った、まさにその場所なのである。

現在の平和公園に住んでいた地域の人たちは、原爆投下の昭和20年8月6日、8時15分までは、この場所で元気で幸福な生活を送っていたのです。一瞬にして、全てを失った人たちとその地域にゆかりのある人たちにとっては、62年という全ての記憶が風化しそうな歳月の中で、この地にあった町名とその所在の場所が確認できるものがあることは、悠遠のかなたの記憶がよみがえり、時を越えた安らぎや安堵感が生まれることに繋がるのではないでしょうか。

『なぜ、日本に原爆が投下されたか』という小冊子をまとめられた私の親戚も、あの日までは平和記念公園の真中にあった旧中島本町に居住していました。

そして、今、8月6日の前には、両親や親族の供養のために、その居住跡付近に帰っては、慰霊の念を捧げています。

市内には、同じような思いで作られたであろう町名碑が、ご覧のように、袋町小学校横の歩道に設置してあります。

新たに慰霊碑を設置するということではなく、この写真にあるような町名碑を設置されたらどうかという提案です。原爆投下時の町名が入った地図も参照してください。皆さん、いかが思われますか。







(※8月10日追加(中国・海南島の視察))

中国最南端の海南省、海南島の三亜(サンヤ)に6年ぶりに旅してきました。



海南省の省都は海口(ハイコウ)で、海南島の北端に位置し、およそ北緯20度の地点です。その海口では、早くから『マツダ』が工場進出して乗用車(火車)を製作し、中国本土や海外輸出の拠点として活発な企業活動をしています。

海南島の南端に三亜があるのですが、沖は南シナ海であり、地理的にはベトナムの首都ハノイよりずいぶん南に位置しています。亜熱帯地域であり、一年中海水浴ができるため、中国政府は中国のハワイにして観光客を呼びたいとの施策で発展中であると6年前に聞きました。

その当時は、施設の立派なリゾートホテルは一つしかなく、そのホテルのプライベートビーチの砂は黒ずんでいたはずです。ハワイ・ワイキキの真っ白い砂には、絶対変身できるはずはないと思っていました。

6年ぶりに訪ね驚いたことは、世に言う五つ星のリゾートホテルが4棟もできているのです。そのプライベートビーチは白く輝く砂が敷きつめられ、全てのインフラ整備やゴルフ場の施設、生活環境整備等めざましいものがあり、「国の力」や「為政者の力」をまざまざと実感させられたのです。











為政者の都市や住民に対する諸々の施策の考え方や実行力は、私たち広島市とずいぶんかけ離れているようです。市民生活のための都市整備、都市環境の改善、観光客を受け入れるための数々の施策、例えば、沖合を埋立て、国際観光港を建設することなど本当にやる気があれば、ここまで出来るのかと、私たちの広島に対する活力、知恵をもう一度見直さなければならない時と感じております。

広島市も川を活用した美しい都市にと言葉ではよく聞きますが、何の実績も、施策もないように感じます。一方、三亜では、橋一つとってみても、デザインも機能も遊び心も、全て含んだものを作っています。そのうえ、河川を活かした散策路の整備、その対岸はマングローブを残した自然のままの緑ある環境にやさしい護岸といったように、施策に夢があるように感じました。

6年あれば見事に変革できる都市政策の例示を見せてもらったようです。機会があれば、皆さんも是非、研修に行ってみてください。何かを持って帰れば「明日の広島づくり」にきっと役立つと思っています。