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(No.206) 平成19年2月22日

『2月議会が終わって』

「ひろしま市民と市政」2月15日号の市長日記『8年間を振り返って(下)』の文章ですが、この市長日記は、広島市の広報紙の一部のはずです。広島市政全般を市長の目を通して市民に広報するのが本来の目的であるはずです。

文章の中で『善意が善意として通じることの大切さ』を述べられていますが、その内容は市政には何の関係もない市長個人の前回の選挙時に起きた事件で市長個人と被害者の女性で刑事告発された事件を指されていると思われます。

市政には直接何の関わりもないはずです。広島市の広報(公報)を使って、かつて被害者であったことをわざわざ発表されることは、市長が選挙戦を戦うための準備手段としての手法で、「何の非もない私がいじめにあっています。市民の皆さん助けてください」との発信がしたいだけではないでしょうか。

個人への「いじめ」、特に公職に就こうとする人への「いじめ」は決して許せるものではないのですが、4年前に起こった裁判で解決ずみの個人への「いじめ」をわざわざ、公の広島市広報で発表しなければならないのは何故なのでしょうか。

広報紙の中の市長日記では、個人のことではなく、市民に対し公平・公正な市長の意思、意見を伝えるものではないでしょうか。この6年間は、市長はいつも「私は正しいのに、議会、市民が私をいじめる」との被害者意識の発信だけをされ続けられたのではないでしょうか。

行政と議会、人と人との間には、意見の対立、思い違い、解決方法の手段、手法の違い等々、多くの対立と抗争はあるはずです。首長と普通の市民の皆さんとの大きな違いは、市長は絶対権力者だということです。秋葉市長はその立場と権力の所在を一番理解されており、他方では、都合の悪い時にはその絶対権力者であることを忘れ去り弱者になることが平気で出来る才能を兼ね備えておられることです。

私たち議員が何故60人もいるのかは、地方自治本来の役目として、より多くの目と耳で絶対権力者である首長を監視、監督、指導する役目を背負わされているということです。首長、行政と私たち議会が適度な緊張関係にあることが本来の議会と行政の役目のはずなのです。

首長と議会が馴れ合い構造ではない限り議論・対立があるのは当たり前のことであり、和気あいあいの行政と議会の関係が続くことの方が民主主義の本来の姿からしておかしいことなのです。そういう観点からすると広島市議会は本当に正常に作動しており、多くの議員の皆さんは、その職責を立派に果たされていると思います。

議案を議会で議論し、修正、否決されたりすることが首長いじめと思われる一部の有権者やマスメディアの発想のほうがおかしく、民主主義、特に地方自治に対する大きな認識の差がそこにあると思われます。

選挙前にして有権者、市民が絶対に必要な要件は、議員に対する監視だけでなく、それ以上に重要で必要なのが行政組織で財政と人事権を握っている、絶対権力者である首長に対する監視、監督ではないでしょうか。

平成19年度の予算特別委員会も平穏無事に終わるかと思っていましたが、市長の不用意な発言一つで2時間も予算特別委員会が止まってしまいました。 

碓井議員の市長任期切れの2月23日以降の市長公舎を退居するか、しないで居座るかや、市長の退職金問題に関する質問と答弁のやりとりの中で「――それこそ議員の資格はないと思います」との一言です。「市長日記で善意が善意として―――」との発言が市長の心底からの思いであるなら、相手が誰であろうと公の場で絶対に発言してはならない言葉であったはずです。

広島市は秋葉市長個人のものではなく、市長職は絶対権力者であるだけに不用意な市長個人の毎日の言動が部下の職員にはパワーハラスメントとして心に傷つけられている人が多数いることを忘れてはならないのです。今回の議員に対しての発言「――それこそ議員としての――」は、日頃から何気なく発言されている「パワーハラスメント」になる発言や言動をそのまま、不用意に発言されたのではないでしょうか。

広島市の顔、誇りとしての市長職は市民に優しい人物であってほしいと望む人は多いと思います。広島市政は「市民の、市民による、市民のための、市民のひろしま」であらねばならないと心から望むものです。
   皆さんはどのようにお感じですか。