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(No.195) 平成18年12月6日

『学校選択制について』

『AERA(11月27日号)』に「学校選択制――全国の攻防」の見出しで、導入した都市、しない都市の明暗を特集した記事が掲載されていました。その中に、景山英男氏(尾道市立土堂小学校校長を経て、本年10月から教育再生会議の有識者メンバー)の学校選択制への思いが記載されています。「いじめの問題解決はまやかし、選択制は地域を破壊する」と題したものですが、その一部を要約、抜粋して紹介します。

○私たちは学校選択制には反対です。何より学校と地域との関係が希薄になってしまいます。
○地域には、学校がいじめや不信感を持たれたときなど、しんどい思いをしているときにフォローしてくれるだけの教育力があります。
○地域が空洞化し、家庭での教育も空洞化していく、それで「美しい国」と言えるでしょうか。
○学校も厳しい経済状況の中でどうしていくのか、自治体と学校がお互い本音の話をするべきでしょう。選択制を実施しなくても、まずは子どもを家庭に戻して地域コミュニティーを学校中心にしていくことです。
○いじめ問題を解決する手段としても期待されているようですが、それはまやかし。選択制を実施せずとも、特別措置で学校を変えることが出来ます。

選択制の利点もあるでしょうが、十分な検討も経ずに一部の意見に影響された導入であれば、本来、教育委員会や市行政が行うべきことを、学校を自ら選択した自己責任として、本人や親に責任転嫁する事態にもなりかねません。また、本当に学区外に転入させるべき事情を持つ者にとってはそのハードルが高くなる恐れもあり、さらに、学校外の地域のことや友人、家庭状況の把握は難しくなり、これらの関係がより希薄になります。ひいては、教育委員会や市行政が描く理想とはかけ離れたものになるのではないでしょうか。

本文には各自治体の事例が書かれています。

○校舎の窓ガラスが割られる事件が起き、いじめが発生した中学校では、学区内の生徒3分の1が学区外中学校への進学を希望している。「近年ではいじめも収まったそうですが、父母の間でも『あそこはダメ』という噂が広がり、ますます志望者が減ってしまいました。」
○名古屋市は学校選択制の導入について外部有識者を招いて検討する場を立ち上げた。だが「学校は地域に支えられている。通学時の安全面でも不安がある」として採用を見送った。京都市や大阪市も導入の予定はないという。

小学校、中学校の生徒や子どもたちを、地域住民の間では「地域の宝」として大切に育てるのが日本人の生活習慣ではないでしょうか。

また、「学力テスト――枚方市(ひらかたし)の混乱」の見出し記事もあります。

○市は全中学校で学力テストを実施している。結果は公表していないが、制度導入後、結果についての情報公開請求があった。市は非開示を決めたが、それを不服とした市民が裁判に訴え、一審では市側が敗訴。現在、控訴審で争っているが、このまま市の主張が認められなければ、いずれ開示される。「結果が公表されたら、おそらく今よりも大きな差がつく。それが一番の懸念だ。」

このことは、地域間の格差のうえに学校間の格差の増大であり、社会格差の是正が叫ばれている中での「勝ち組」「負け組み」の構造が「小学校教育」「中学校教育」の義務教育期間中からも始まることになり、教育の平等性や公平性等、教育の根幹にかかわる問題になるのではないでしょうか。

さらに、安全面についての指摘もあります。

○神戸市では、防犯対策で、ほとんどの小学校で集団登下校を実施している。別の小学校に通わせる場合、その集合地点まで親が送り迎えしないといけない。それが応募の少ない原因とみている。「正直なところ、積極的に選ぶほど特色が小学校にはないのが現状です。それよりも今のご時世では、通学時の安全が重視されるのでしょうね。」

どこの都市でも地域とのかかわりと子どもたちの安全、安心が一番問題視されているのではないでしょうか。

広島市についての記述もあります。

○指定市での導入は以外にも少ない。広島市は2005年、中学校で本格的な選択制を導入した。区内の学校か、区外でも隣接していれば選ぶ対象になる。選択の幅が広いため、人気校とそうでないところの格差は大きい。昨年、安佐中は40人の学区外枠に137人が応募した。「交通の便がいいのと、部活動の種類が幅広いのが受けているようです。」
○旧制一中の流れをくむ国泰寺、部活動の種類が多い井口、牛田などは、毎年抽選になっている。その一方で、生徒100人以上減らした中学もある。
○広島市の場合、東京などと違うのは学力で選ぶというよりも、荒れている学校を避ける傾向が強い。それに、荒れている学校の建て直しには、地域の協力が不可欠なのですが、選択制によって地域がバラバラになって、やりにくくなっている(市内の教育関係者)。広島市は、中学だけでなく小学校でも選択制を導入すべく準備を進めていた。市民アンケートで選択制を望む声が多かったからだ。

また、「広島市は事件で中止」の見出しで次の記述がありました。

○2005年11月に、下校中の小1女児が殺害される事件が起き、状況は一変した。市内では今でも、地域住民が交代で子どもの登下校を見守る活動が続いている。「いま、学区外から通う子どもの安全はどう守るのか、という不安の声が寄せられています。そこで、今年もう一度アンケートを取って、改めて検討したい。」(市教委)

「市民アンケートで選択制を望む声が多かった。」との文章は教育の現場を授かっている市教委の教育理念のなさを皮肉っているのではないでしょうか。

子どもたちへの教育方法をきちんと指導、監督するのが広島市教育委員会であり、「アンケートで市民が望むから」と言う前に、学校現場の先生が何を考え、どのような方法で子どもたちを教育し、育てるのかを、考え、指導、監督すべきではないでしょか。

   市民や子どもを持つ親に一方的に責任転嫁するのは、今の無責任体制の広島市行政だけでたくさんです。明日の日本、広島を担う子どもたちを育てる学校現場を抱えている教育委員会は独自の教育理念を持ってほしいものです。
   市民の皆さんはいかがお感じですか。

学校選択制(通知文)



(※12月7日追加(アメリカ人とのつきあい方))

秋葉市長の著書はいくつかあるようですが、岩波ジュニア新書に『アメリカ人とのつきあい方』という本があります。インターネットでは「高校時代のホームステイ、20年近い在米生活を通して、開放的で活発なハイスクールの日常を紹介しつつ、アメリカ人の伝統的なライフ・スタイルや考え方の核心に迫ります。日本とアメリカの若者がお互いを理解し、交流を深めるための手引き。」と紹介されています。

今から20年近く前に書かれた本ですが、秋葉市長の若き日の在米生活を通じて培われたアメリカ人観とは何か、そこには、当然、自分自身をも省みつつ、若者に対して示唆に富んだものになっているのではないかと思い、手に取ってみましたところ、今の秋葉市長の人となりを理解する上で、興味深いものがありましたので紹介してみたいと思います。

本の構成は、「I サマーズの家の日々」「II エルムウッド・パーク・ハイ・スクール」「III アメリカの年中行事」「IV 若者の自立」「V アメリカ人のライフ・スタイル」「VI アメリカの抱える問題」「VII 国と国とのつきあい」となっています。このうち、「I」には、ホームステイ先(1年間)の家族、サマーズ家のことが紹介されていますが、そこで、当時の秋葉氏は2歳年下のスティーブという男の子と二人で一部屋を使うことになったようです。その生活について、次のような記述があります。

   スティーブは一人っ子で、それまでなんでも自分の思うとおりになる生活をしてきていましたし、私は長男で、日本では弟や妹より優先権があってあたりまえだと思っていました。しかし、住んでいるところはスティーブの家ですし、まわりのものはすべて、(略)彼のものですから、彼に優先権があって当然です。でも、たまにはこちらの気持を考えてくれてもよいのではないかと思える日もありました。
(略)
   一年近くいっしょに生活したものの、スティーブとは心からの友だちになれませんでした。しかし、考え方がちがい好き嫌いがあっても、なんとか折り合って生活する術は学べたように思います。

「あれあれ、この本は『日本とアメリカの若者がお互いを理解し、交流を深めるための手引き』ではなかったか」と首を傾げたくもなりましたが、これも交流を深めるための『術』なのか、と納得することにしました。ただ、「優先権があってあたりまえだ」などの記述は、現在の秋葉市長の「自己本位」の姿や「自分は被害者だ」と言い放つ姿とオーバーラップするものを感じました。

最後の「VII 国と国とのつきあい」では次のようなことも書かれていました。

その歴史的事実(これは神の意志によって原爆をもった自分たちが、その神の意志によって悪魔日本をやっつけ服従させた、つまり、善が勝ち、神が勝った)があるからこそ、現在でも核兵器イコール神、あるいはSDIイコール神という図式、また力によって悪を征服するという考え方がアメリカでは強いのだ、と私は思えます。国と国との武力衝突が過去のものになる世界、平和な世界を実現するためには、こうしたアメリカ人の世界観がもっと協調的な世界観に変わることが必要だと私は思います。

これは、その後秋葉氏がかかわることになる『アキバ・プロジェクト』の序章でしょうが、アメリカ人観として百歩譲ったとしても、このような独善的な見方があるのでしょうか。原爆を正当化するために発せられた言葉かも知れませんが、日本人にとって、いやアメリカ人にとっても歴史的事実として率直に認められるものではないと思います。また、少なくとも、この本の趣旨である「日本とアメリカの若者がお互いを理解し、交流を深めるための手引き」と照らし合わせると、やはり首を傾げざるを得ません。

そもそも秋葉氏は「アメリカ人は核やSDIを神格化」ということを述べられていますが、これは「彼ら(アメリカ)は神である核を絶対に放棄することはない」と断言しているようなものです。アメリカやアメリカ人をこのように理解し、その上でアキバ・プロジェクトを推し進め、今も核廃絶の行脚を行っていることは、明らかに偽善的な行為であり、自己PRに他ならないのではないでしょうか。

いずれにしても、この本で、国と国とのつきあいということを述べるのは大変無理があったのだと思います。せめて原爆やSDI、アキバ・プロジェクトの項を外して、本のタイトルどおりの「アメリカ人とのつきあい方」にされればよかったのではないでしょうか。