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(No.97) 平成16年2月16日 『公共事業の見直しについて』

 『市民事業〜ポスト公共事業社会への挑戦〜(中公新書ラクレ85)』という本を読みました。公共事業見直し委員会の五十嵐敬喜氏(法政大学法学部教授)と天野礼子氏(アウトドア・ライター)の共著で、長野県知事の田中康夫氏が応援メッセージを寄せている本です。

 著者の紹介コーナーをみると、五十嵐氏は、「弁護士として不当な都市計画や建築に対して戦うことで日照権を確立。また、不可解な公共事業のあり方を批判し、公共事業見直しの流れをつくった。著書に『公共事業は止まるか』『公共事業をどうするか』『破綻と再生』『美の条例・いきづく町をつくる』『美しい都市をつくる権利』などがある」と紹介されています。
 公共事業の専門家と言われるだけあってそれなりの著書歴もあるようです。ただ、本のタイトルの中にはどこかで聞いたような言葉が並んでいます。

 五十嵐氏は、この本の中でいわゆる旧来型の公共事業をほぼ全面的に否定されています。私は、これまで幾度も公共事業の見直しの必要性は述べています。しかし、以前にも申し上げましたが、公共事業を削るだけ削って、経費を切り詰め、プライマリーバランスをよくすれば後は何もしなくていいということではありません。

 「都市を再生し、経済を元気にする」ためには、構造改革を進めつつ、不況を脱するための需要喚起にもつながる対策が欠かせません。要は、経済再生のためにはこうしたバランスが肝要であり、公共事業による投資も必然性はあるということです。全ての公共事業を『悪』という見方はいかがなものかと思うわけです。
 五十嵐氏は、この本で次のような主張をされています。

 従来の公共事業と市民事業を比べると、前者は例えば高速道路、ダム、原発などを思い浮かべれば分かるように、大量生産、画一的な計画、膨大な資金、高い技術などが必要であった。しかし、市民事業は、少量生産、個性的・地域的な計画、安い費用、ローテクなどが特徴となっている。
 従来型公共事業が大型土木・建設業会が中心となって担っていたのに対し、市民事業には個人、零細企業、さらにはNPO、共同組合など、いわば普通の人が参加し実現できる。
 旧来型の公共事業は完璧な中央集権システムに支えられてきた。五全総は公共事業の百貨店であった。官僚にとっては、縦割り行政と金の根源であった。
 これまでのシステムのもとで事業を行ってきた人から見れば、これらの市民事業は、自らの基盤を揺るがす脅威と捉えられるかもしれない。
 再開発などを安易に手がけるのは、予算があり、法律があり、何年か前に計画で決めたからであり、少数の開発好きな利権者とこれにまつわる利権があるからである。
(→まさに革新社会の主張です。長野県は社会実験の場とも言われていますが、広島市も同じ状況にさらされようとしていることをいち早く市民が気づく必要があります。それから、見直し委員会で中止の方向が示されているのに、きちんと結論を出せなかった理由は、市長が5年目であり自分で事業も立ち上げた経緯があるからです)

 現在のマスタープランには法的に拘束力がないため、高速道路ができればまちは分断され、道路の拡張にともないスーパーが郊外に出店してしまう。したがって、市民のマスタープランは、高速道路がつくられないほうが楽しいし、みんなが幸せになれるということを実証しなければならない。
 これらの作業を通して市民は「参加」し、自治体との「協働」主体にシフトしていく。議会も、ただ行政の提案してきた案を承認するだけの議会から、自ら市民事業を提案する積極的な議会に変化するに違いない。
(→全てを紹介しているわけではありませんが、この程度の論拠で公共事業を否定しているのでしょうか。とても自立する市民事業が成り立つとは思えません。それから、筆者は地方議会と行政(首長)の関係が分かっていません)

 旧来型の公共事業はすべていったん取りやめる。その上で市民が行うべき公益的な事業とは何か、が白紙の状態で吟味される。
 計画から実施まで、イギリスから導入した民間主導のPFI、自治体が計画を立てて一部を委託する外部委託、はじめから市と住民が一緒になって行う第三セクター、あるいは自治体が株主となるような株式会社。誰がどのような事業を、どのようにして行うのか、それぞれ規模や種類に応じて多様に考えてよいのである。
(→着目点はいいが、現段階は実施するための下準備さえできていません。破壊すれば再起があるような無責任な言葉です。自己主張するだけで、市民生活の安全と安寧の観点が全く考慮されていません)

 公共事業とは、実は法律的には、はじめから、都市計画として自治体の仕事として定められているのである。しかし、なぜか公共事業は、自治体ではなく、国の仕事と見られ、現実にも国の仕事として行われてきた。市民事業ではあらためてこれを本来の都市計画に戻さなければならない。
 これら施設や事業を定めるのは、道路法、河川法などによって国務大臣とされ、自治体は、これを受けて事業の行われる場所だけを都市計画決定として定める、とされてきたからである。中央集権ではあらためてこれを本来の都市計画に戻さなければならない。都市施設と都市事業を大臣ではなく自治体が行うということをはっきりさせるのである。
(→国の事業を止めることが、果たして都市部以外の住民にとってどのような結果をもたらすのか、よく考えなければなりません)

 本書では、市民事業の中でも、特に自然再生に力が入っているが、これは、三つの理由による。
 一つは、日本はこのままでは恐らく昭和20年の敗戦の頃まで崩れ落ちてゆく。敗戦は、いうまでもなく日本を叩きのめしたが、それでも「山河」は残っていた。そしてこれが日本再生の根源的な力となった。しかし今は、守るべき「山河」すらない。これを私たち大人の責任で早急に回復しなければならないということ。
 二つ目は、病は、農村や中山間地域だけでなく、ほとんどの人が住む都市にも及んだ。「美しく生きる」ことができる社会をどう構築するか、足元の森林、河川と海の関係を見直すことからしか始められないのだ。
 三つ目は、自然を回復することは、心地良いものであり、市民が一番得意な分野でもあり、市民から一番求められているものであるからだ。
(→美しい都市というのは、秋葉市長の言葉ではなく、五十嵐氏の言う施策を代弁し、代行しようとする社会実験だったのです。選挙で選ばれたのは秋葉市長であり、学者の五十嵐氏ではないのです)

 以上が、この本の抜粋と私の所感です。
 全体を通して言えることは、「主張」の部分ははっきりと結論が見えているのに対し、「主張」を導く何らかの根拠や裏づけの部分、つまり論証プロセスがあまりに希薄だということです。単なる思いつきではなく、十分な分析や思考過程のもとに導かれたものでないと、せっかくの主張に対する応えは期待できません。

 見直し委員会での五十嵐氏の発言を聞いても、わずかばかりの経験的事実を述べ、後は「すべてをいったん白紙にしなければならない」の主張の繰り返しでした。長野県では、ダムの建設にターゲットがしぼられていたから、主張と根拠の関係が際立ち、その議論のやりとりが県民だけでなく全国民的な関心を寄せていたのです。

 広島では、64の事業を全て対象とされました。これらの事業について、「旧来型の公共事業は悪だから、全て一旦取り止める」という理屈をつけて、十分な論証プロセスも経ずに、「中止」という結論に導こうとするのは無理があります。
 こうした学者は、過去の経緯がどうであろうと、また、法律などでどんな決まりや制約があろうと、それに縛られず、自らの理想や理念を追いかけそれを対外的に主張すれば事足りるわけです。

 本来やるべきことは、一つ一つの事業に対して、より細かな分析をして、市民が十分納得できるものを示すことであり、そうでなければ、結論に対する支持は得られません。「無い袖は振れない」と弱みがあるからといって、こんなに軽く操られるのでは、とても市民は納得しないし、市民主体の施策にもなり得ません。皆さん、いかが思われますか。