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(No.93) 平成16年1月28日『公共事業見直し委員会について』

 1月26日に開催された公共事業見直し委員会で、広島市の大規模プロジェクトの方向性が示されたようです。
 傍聴された方の話を聞くと「何とも薄っぺらな議論で、これに基づいて広島市の将来の方向づけをしようとしているのかと思うと、大きな不安を覚えた」という感想でした。

 例えば、県・市覚書に基づいて進めていた五日市漁港フィッシャリーナの埋立事業については、座長が「一旦中止ということでいいのではないでしょうか」と仕向けて、1〜2人の賛同を得ると「じゃあ、それでいきますか」といった全く軽い調子で議事が進められたようです。

 出島地区港湾整備事業に至っては、ある委員から「数百メートルの塀が海の玄関から見えることとなる(塀とは埋立護岸のことらしい)。これでは『美しい都市』広島にはならない。第1工区のメセコンが中止になったのだからそちらへもっていけばいい」ととんでもない主張をされているのです。

 この委員は、都市圏から発生するゴミの最終処分の問題をあまりに軽くみているし、また、第1工区のメセコン用地は埋立竣工済みのことは知らなかったのだと思います。もちろん、出島地区の新しい街づくりの中心にメセコンが位置していたことも知らなかったのでしょう。そうでなければ「ゴミの最終処分場が街づくりの中心にあった方が『美しい都市』になる」といった趣旨の発言をするはずがありません。
 この程度の認識でメセコンも打ち消されたのでしょう。とても、市の将来の方向づけにも大きく関与するらしい検討組織とは思えません。

 この出島地区港湾整備事業については、委員会では「関係住民の理解が得られていない」などとして一旦中止とされたものですが、環境局長が「環境、景観、遮水シートの問題など市長の判断で設置許可したものである。一旦許可した内容の変更は、法的にも、道義的にもできない」と再考を促がしても、座長は「全て公共事業は市長がゴーサインを出しているのだ。その全てを見直すとき判断を変えられないというのは筋が通らない」「そもそも設置許可が間違っているのだから、委員会が正さないといけない」と切り返されたそうです。

 座長は、どういう認識をお持ちなのか知りませんが、この委員会は法令に基づくものではなく任意の委員会です。この委員会にそのような権限はありませんし、許可の重みもルールも全く分かっていません。
 その後、ある委員から「次のゴミ処分の受皿は考えておかないといけない」との意見も出ましたが、それに対して座長は「全面中止ではなく、一旦中止だからいいのではないか」と環境行政に対する認識も事業が停滞することの問題も無視し、不問にされたようです。

 このような話を聞くと、担当部局からヒアリングはしているということですが、事業の内容を十分に理解されているとは思えません。それとも、自分の考えに沿わないことは意図的に記憶から排除しようとでもされているのでしょうか。
 多数の委員会では、いろんな意見が交錯してなかなか決められないので、偏った考えの持ち主ばかりを集めた小集団の委員会としたわけがよく分かりました。
 それから、「一旦中止」という曖昧な言葉には責任の所在が見えません。いたずらに空白期間を生じさせるだけで、その影響が今後の市政の推進にどのような支障を来たすのか意識しているとは思えません。

 このように、この委員会の委員の発言は、とても行政について精通しているとは思えないようなことばかりです。いたずらに行政を混乱させているとしか思えません。それを尊重しようとしている市長は、どう責任をとるつもりなのでしょうか。

 その日の夕方のニュースでは、委員会の存在意義を指摘する声のほか、特に、段原東部地区土地区画整理事業の中止勧告を受けて、30年間待たされ続けている住民の苦悩が映し出されました。「この地区で財政再建か、継続か、議論を待つ余裕はない」とのコメントも付け加えられました。
 また、インタビューで、ある中心的な委員が「全部認めてきた議会が、財政危機を作り出した犯人だ」と決めつけていました。
 中止勧告するところだけ住民の合意形成がなされていないと言わせ、また、自らが実施判断したことを棚に上げ「議会が犯人だ」と誤った認識を植えつけたトップは、その責任をどうとるのでしょうか。

(追伸(詭弁論理学について))

 『詭弁論理学』(中公新書448)という本を紹介します。著者は野崎昭弘氏(1936年生まれ)で、1959年に東京大学理学部数学科を卒業され、大学教授の傍ら多くの著書を書かれています。
 この本は1976年に初版を発行されており(現在48版)、多少内容には古さを感じますが、ロングセラーになるのも納得できる本です。「強弁」「詭弁」とはこういうことなのかと改めて考えさせられ、それに対する論理的な対処法などが分かりやすく書いてあります。また、「何故、鏡の中の映像は上下ではなく左右のみが反転するのか?」といった日常的疑問から歴史的エピソードなどが独特の見地から分析されています。
 深く考えさせられると同時に、機知に富んだ言い回しについつい引きこまれてしまうのですが、身近な人を思い浮かべながら読むと、また一層面白さが伝わってきます。一部を抜粋して紹介しても、著者の意図する「論理学」をきちんと伝えることはできませんが、私なりに印象深かったところを紹介します。

 世の中には、「話上手」な人がいて、ちょっとした集まりなどでも、その場の雰囲気を和やかにし、皆を楽しませてくれる。(中略)一方、世の中には「議論上手」な人がいて、これはあまり好かれないようである。「議論べた」はいつも、後になってから「ああ、あの時はこう言ってやればよかった」と後悔する。(中略)「後悔しない」ためには、自分が議論上手になればよい。しかし、それには努力ばかりでなく天分も必要なので、「なろう」と思ってなれるものでもないらしい。(中略)なまじ「議論上手」になって人に嫌われるよりは、天分を生かして「話上手」になるか、あるいは「勝てなくてもよい」という前提で議論を楽しむ「ゆとり」を身につけた方が、はるかに好ましいのではないかと思う。

 ヒトラーは「最後まで非常に多くのドイツ人に崇拝されていた」といわれる。彼は卓越した演説の才能の持ち主で、第一次世界大戦に敗北して意気消沈するドイツ国民に夢と希望を与えた。彼の残虐なユダヤ人迫害は現在では広く知られているが、当時の国民には、あまり具体的なことは知らされていなかったであろう。彼の組織した青少年団は、思想健全・健康優良な少年少女の集まりで、彼らは本当に心から「ヒトラーばんざい」を叫んでいるのである。
 このように「心からそのように思いこませる」ことは、「強弁」というよりはむしろ「詭弁」の類に入れるべきかもしれない。しかし、彼の方針についていけない者にとっては、彼の演説は所詮「強弁」にすぎない。

 小児型の「強弁」の厄介なところは、「本人がそのつもりでない」という点である。極端な言い方をすれば、「妥協したくない」から妥協しないのではなくて、そもそも「妥協ということを知らない」のである。だからこそ、自分が本日ただいま感じていることや決心したことを率直に述べるだけで、そのこと自体はよいとしても、他の人の言うことが少しも耳に入らず、よほど露骨に反対されない限り、自分の考えを繰り返すのである。

 以上、抜粋して紹介しました。
 読んで思ったことですが、相手との議論に押しの一手の「強弁」を振り回すか、はたまた多少とも論理や常識を踏まえて丸め込む「詭弁」を使うかは、頭の良し悪しとか、話術の巧みさということもあるでしょう。
 しかし、議論の中に本当に欲しいものは、きっと他にあると思います。「政治は言葉です」と言った人がいましたが、「言葉は心なのです。心は人を大切にすることなのです」と訴えられた前市議会議員もおられました。
 発する言葉には、何よりも誠実さがなければならないし、責任あるものでないといけないということだと思います。皆さんは、どのようにお考えですか。
 いずれにしても、明確にできない議論に安易に納得すべきでないことを教えてくれる本でした。是非ご一読下さい。