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(No.64) 平成15年8月8日 『平和宣言について』

 8月6日の平和記念式典も終わり、新聞各社が様々な社説を掲げられています。
 その中で、読売新聞と産経新聞では、平和と核と、そして今日本が直面している社会に対して、公平な視点で書かれていると思われます。

 まず、読売新聞の『社説』は、「北朝鮮への『抗議』の姿勢は、何とも中途半端なトーンだった。」「金総書記の出席などありえないことはだれにでもわかる。程度の低いパフォーマンスというしかない。」としています。
 また、アメリカと北朝鮮の核に対する論調の比較として、「日本が当面する核の脅威を直視すべき広島市長の発言としては、均衡を失したもの、という印象は拭いがたい。」
 さらに、「反核運動がともすれば、『政治』に偏し、均衡を欠くことになるのは今に始まった話ではない。」「反核運動も、政治イデオロギーにまみれてきたというのが、歴史の実相だ。」「唯一の被爆体験を生かす道はもっとほかにあるはずだ。」
 最後に「日本を、北朝鮮の『核恫喝』に屈して言いなりになる国にしてはならない。ヒロシマ、ナガサキの当面の祈りは、北朝鮮の核阻止に向けられるべきだろう。」と総括しています。

 また、同新聞の『編集手帳』には「春秋の筆法(=『間接』の原因があたかも『直接』の原因であるかのように語る論法)」を持ち出し、次のように述べられています。
 「秋葉広島市長は平和宣言の中で、核の脅威を高めた張本人として米国を名指しし、厳しく批判した。北朝鮮の核の脅威には具体的に触れていない。『直接』と『間接』を取り違えた文意に、違和感を覚えた。」「正義の旗のもと、米国の時に強引な力の行使が、世界の安定にとって『間接』の脅威になり得ることは否定できない。だからとて、差し迫った『直接』の脅威に批判の筆を惜しむのは、理解に苦しむところである。」「保安官の銃弾であれ、無法者の銃弾であれ、等しく憎むならばいい。銃弾のない世界を希求することは、その残虐さを身を持って知る者の務めだからである。無法者の銃弾にだけは妙に甘い平和宣言からは、政治イデオロギーのにおいが感じられてならない。」

 被爆者の一人として、原爆死没者慰霊式と平和論を一括して論じる風潮は悲しいものがあり、読売新聞の『社説』と『編集手帳』の視点、論調を「是」としたいものです。

 また、産経新聞の『主張』も、大筋としては読売新聞と同じ視点であり、「広島市などからは、こうした北朝鮮の核開発に対する明確な非難のメッセージがほとんど伝わってこない。秋葉忠利広島市長は昨年10月の米国での講演で、北の核開発が明らかになった直後にもかかわらず、もっぱら米国の核政策を批判し、北の核問題には全く触れなかった。平和宣言も、米国がイラク戦争で劣化ウラン弾を使ったことへの批判に力点が置かれている。」としています。

 被爆地、広島の市民として、一個人の想いではなく、被爆の実相に思いを入れ、政治やイデオロギーではない真摯な心で、均衡ある平和論を構築してほしいものです。