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(No.52) 平成15年6月13日 『元マツダ幹部の体験記』

  読んで「なるほど」と思わされた本があります。一つは「フォードVSマツダ日米戦争に学ぶ−ビジネスマン明日への12章(迫勝則著)」で、もう一つは「なぜ、日本車は愛されないのか(立花啓毅著)」です。いずれの著者も古き良き時代のマツダに入社し、マツダの最前線で激動の時代を迎え、郷土広島とマツダへの愛着を感じながら得た様々な経験を通して、読者に人生やビジネスでの生きるヒントを与えることができたらという思いで発信されているようです。

<フォードVSマツダ日米戦争に学ぶ−ビジネスマン明日への12章(迫勝則著)>
 この本では、特に今、広島市役所の中で起きている事例(特に市長と職員との関係)とオーバーラップするものを感じました。その一部を抜粋して紹介します。

 2001年9月14日正午、宇品第2工場の生産ラインは静かに停止した。午後4時、最後のファミリアセダンを前に閉鎖式が行われた。垂れ幕に『U2ありがとう』と書かれた文字が見えた。胸に込み上げるものがある。そして、おやっと思ったことがあった。フィールズ社長以下、フォード出向役員の顔がどこにも見えない。工場閉鎖の意思決定をしたのはフォードではないか。このセレモニーを日本人だけに任せてしまったフォードの姿勢に何か言い知れぬものを覚えた。


 当然のことながら、マツダは日本の会社だから日本式の組織表が存在していた。それは、会社の人事評価上の組織と考えてもよい。一方、この組織表とは別に業務用の組織が存在することになった。○○部長のもとに主幹、主任、社員が平等に並び、全員に課題が振り分けられる。いわば、○○部長と個人との契約である。このミーティングは課題の進捗状況確認を行うためのものだった。私の部下にとっては上司が2人存在することになった。私が人事評価上の上司で、○○部長が業務上の上司である。やりにくいこと限りない。ついに、本部長(日本人)が○○部長にやり方を考え直すよう諭す場面もあったが、○○部長は全く聴く耳を持たなかった。


 彼らは『会社のため』という大義名分は否定しない。しかし、基本的には自分のボスのためだけに働いている。主任→マネージャー→部長というタテのラインの意識は極めて薄い。自分のボスは誰かというのを決めたら、その人の言うことだけを聞いている。他の人の指示を受けることはない。間違って、他の人の指示を受けた場合でも、必ず自分のボスの再指示を求める。例外はない。アメリカのヨコの関係をベースにした組織は、まだ日本人には馴染まない。マツダでも多くの社員が理解不足のままトラブルを繰り返している。


 欧米には、一流ビジネスマンの基準とされる称号がある。MBAである。MBAは、一般の大学卒と違って、一旦就職した人たちを対象としたビジネススクールで修士号を取得した人のことを指す。MBA取得者には共通した習性がある。まず話はマクロから入る。しかも、話にはしっかりとした筋(理論)が通っている。それ自体大変よいことである。しかし、ひとつレールを外してしまうと厄介な部分がある。柔軟性に欠けるというか、視野が狭いというか、どうしてもひとつの枠から抜けきれない。その根底には欧米独特の合理主義の価値観が横たわっているような気がしてならない。むろん、MBAそのものを否定するつもりはない。経営とは何か?ビジネスとは何か?『カネがすべて』の価値観には、どこかついていけないところがある。そして、何よりも今世界を均一化する必要があるのだろうか?


 フォードは、筆頭株主という立場を最大限に活用してマツダを完全に支配しようと目論んでいたのである。実は、これがアメリカ資本の特徴である。彼らは経営者だけでなく、部長、マネージャーといった実行部隊にまで人を送りこんできた。こういう経営実践スタイルは、果たしてうまくいくのだろうか?マツダは、その実験場だったといえる。はっきり言って、私の実感では、この方法には限界があると思う。それは、本来企業というものは、その国(地域)の文化や習慣に深く関係を持ちながら、その国(地域)の人たちが働くところであるからである。派遣主義は長続きしない。グローバルな企業は、一方で地域に定着・帰化するという信念のような強い姿勢を持ち続けなければ、発展的な継続は望めないのではないかと思う。


 私たちは、社員でありながら最も基本的なことが知らされていなかった。フォードは、マツダとの関係をどのように考えているのだろうか?あるいは、フォードはマツダをどうしようとしているのだろうか?知りたかったのは、この一点だった。しかし、フォードからマツダの一般社員に対して何の説明もない。しからば、自分の判断でコトを進めるしかない。すべてがそういう疑心暗鬼の中で進められることになった。この点において、私は日本の会社の方が良心的だと思う。会社経営でウソをつき通すことはない。トップが人前で本心を露呈して涙を見せることさえある。


 具体的なやり方についても、疑問を感じることが多かった。例えば、若手や女性の登用である。私自身、若手の力を信じているし、女性パワーも嫌いではない。しかし、必要以上にそれにこだわるアメリカ人の考え方には、正直なところ、ついていけなかった。彼らは、若手や女性を登用すること自体を評価する傾向がある。ディベート至上主義もあまり好きではなかった。私自身、本質さえ見据えておれば、議論に勝った負けたなどは問題ではなかった。しかし、これが彼らには通用しない。議論に勝つこと。これが彼らのビジネスのすべてだった。


 ごく一部を紹介しましたが、これらは筆者が日本社会とアメリカ社会の両方を体験した中から感じ取られたものです。
 冒頭、市長と職員の関係とオーバーラップすると申し上げましたが、この本を読んで、市長の発想の原点がどこにあるのか垣間見れるような気がします。日本社会や地域の社会に溶け込もうとせず、改革の名のもとに実験場と化してしまう。自己主義対民主主義の戦いという見方もできると思います。「説明責任」とか、「責任転嫁」といった言葉も連想されはしないでしょうか。
 英語には「部下」という単語はなく、アメリカ社会は個人との契約だそうです。市民にとっては、どちらでもいいことかも知れませんが、市民のための契約であってほしいと思います。
 是非、ご一読してください。

<なぜ、日本車は愛されないのか(立花啓毅著)>
 この本は、マツダに入社した「クルマ好きの一技術屋」(本人の弁)が、クルマづくりは、作り手がいかに人々に共感される「心・魂」を持つかが重要だということを訴えたかったようです。クルマを単なる工業製品として見ず、クルマに文化を感じ、そしてその文化は情緒ある風土からしか生まれない。こうした信念のもとにクルマづくりに取り組んでこられた筆者の思いが伝わってきます。
 ここでは、この本を読んで、最近気にかかっている「広島自動車デザイン開発会社(鰍gIVEC(ハイベック))」について私の思いを述べたいと思います。

 最近、産学官という耳障りのいい言葉が多く聞かれますが、気がかりなのは、「産」は地場の中小企業、それもほとんど小企業が対象ではないかということです。資金もあり、人材もあり、情報もある大手企業は地方都市の「官」からの情報・支援はあまり必要とされないでしょう。また、地場の中堅企業も同じことだと思います。一番必要とするのは地場の小企業です。

 こうした企業は「官」や「学」から発信される情報を信じ、大きな期待を抱きながら企業活動をするはずです。しかし、現実は全く違い、広島での成功例は皆無ではないかと思われます。
 一例がO−157の検査器です。バイオ産業の育成と銘打ち、数多くの試行錯誤を繰り返し、協同組合まで立ち上げさせて時流に乗ろうとしたところで、「特許」のハードルが出てきて、時のバイオの第一人者の弟子の広島市職員は早々と東京へ引き上げられました。後に残ったのは、産学官の名のもとで夢見たものは影も形もなく、官(広島市行政)の冷たさだけでした。
 このような過ちを二度と繰り返すことなく、官としてはどこまでが手助けできるのか、限度と限界を明確にするルールづくりがはじめにありきではないかと思われます。

 ハイベックの設立に際して、市長は全面的に支援すると言っていますが、地場の小企業が中間マージンを取られてまでこの事業に参画することがどれだけのメリットがあるのか明確にする必要があります。また、仕事の取り合いになり、小企業つぶしになることだけは是非避けたいものです。
 「官」だからといって何でもできるのではなく、「官」だからこそ限度があるわけです。地域の実状をよく認識し、地域に根ざした産業育成であってほしいものです。実もない口先だけの事業展開は、最後には小企業、市民が被害を被るだけではないかと思われます。



  (追伸1(広島高速交通鰍フ人事))

 行政が透明性を求められている中で、天下りという現実があります。これは高級官僚がその権限を持って民間会社へ就職することで、悪の温床のような目で見られているところがあります。
 広島市の第三セクターで設立した広島高速交通且ミ長に大手ゼネコンの専務が就任されるようですが、このことは「天下り」の逆ですがもっと悪のようにも思われます。
 アストラムラインは延伸計画もあり、それに伴う街づくりもありますが、こうした計画づくりに対応していけるのでしょうか。また、東京からの就任となりますと、市長が公舎を構えられたように住む家の経費がかかります。本人は、広島プリンスホテルを建設された時の責任者であったかもしれませんが、とても広島を熟知されているとも思われません。そして、本人の給与がこれまで以上のものが望めなければ、他の民間会社の役員、顧問の兼務もあるということも考えられます。
 なぜ、わざわざ広島の人材でなく、市長の同級生である人物を東京から呼ばなくてはならないのか。広島の中でどんな人材を求められたのか。アストラムの再建計画を了承しておいて、その上で新たな経営者を招かれるとすれば、それ以上の再建計画が示される人なのか。市民へ分かりやすく明確に説明される義務があると思われますが、皆さんはどのようにお考えですか。


  (追伸2(広島高速道路交通量の下方修正))

 6月6日の記者会見を報じる新聞報道(6月11日毎日新聞)を見て、腑に落ちない点があります。広島高速道路の交通量が予測より3割減という内容ですが、これに対して、市長は「(公社が)最初の予測値を甘く考えすぎていた結果」「国は地方自治体に対し、金は出さずに仕事だけ押し付ける流れが強くなっている。(この事業が)同じパターンにならないよう、国の責任をより重要視してもらいたい」と公社と国を批判しています。
 公社や国が何故批判の矢面に立たされるのか分かりません。確かに需要予測の面において国の指針のもとに、全国のトータルの交通量の推計値を基本に算出されていることは理解できます。全国の高速道路の計画見直しや公団民営化の動きもあります。しかし、最終的に需要量を算出し、公社で事業化させた市と県の責任というのはどこにいったのでしょうか。責任転嫁も甚だしいと思います。
 仮に、市長がこれを機に、国道2号高架に続いて、広島南道路も凍結しようという考えならば(江波地区の反対のため)、それは大間違いです。
 道路を血管に例えた話は以前にも申し上げました。太くて丈夫な動脈がないと血液がすみずみまで行き渡らず、末端や健康な部位までが病に侵されてしまいます。ましてや、高速道路はネットワーク化されてこそ効果が生じるものであり、中途半端な投資は効果を半減させてしまうばかりか、全く無駄な投資に終わってしまいます。
 そして、このことは市長の提唱されているビジターズ倍増計画にも反する結果になるはずです。例えば、貨物ヤード跡地の計画は高速道路のネットワーク化がないと採算は成立しないことになります。エンティアムが大規模な駐車場を計画しているのは、より広域からの客を車で呼び込もうとしているからです。
 ビジターズ倍増のための基本的な都市インフラを一部の反対でストップさせるのは、とても将来を見据えた行政を推進しているとは言えません。
 皆さんは、どう思われますか。