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(No.27) 平成14年12月 2日 『平和大通り新世紀リニューアル』

 平和大通り新世紀リニューアルのデザイン募集が行われました。「デザインと使い方のイメージ」を募集し、市が取りまとめる際の参考にするということのようですが、大変気にかかっていることがあります。
 それは、街づくりの中で、芸術をどのように考え、扱っていくかという点です。人々が街に暮らしていく以上、何か人々の心を癒したり、訴えかけているものがあるはずです。街の中に溶け込み、日常の生活や仕事の合間にそれらに触れ、体験し、感動できる何か光り輝くようなものが街づくりには必要なのだと思います。ヒロシマには平和という街づくりの大きなコンセプトがあり、その象徴である平和公園や平和大通りには人間が生きることの輝きや、胸に秘めている愛情、平和を分かち合う精神といったことを表し訴えている「芸術」があるのだと思います。
 ここまで申し上げますと、私の気にかかる点がお分かりいただけると思いますが、平和大通り新世紀リニューアルの中で、平和大橋、西平和大橋の欄干デザイン、つまりイサム・ノグチの芸術的価値をどのように扱っていくかという点がどうしても心に引っかかるのです。
 ここで、二つのデザインが生まれた背景を、「イサム・ノグチ−宿命の越境者(ドウス昌代著)」から抜粋して紹介いたします。

 浜井市長が広島復興でまず力を入れたのは、市の中心部を東西に貫く平和大通りで、広島市が公募した平和記念都市計画コンペに丹下健三研究室の案(ピース・センター)が一等入選したのは1949年だった。
 1950年、イサム・ノグチが19年ぶりに来日したとき、「私の大きな関心は戦争で亡くなった人々のために、広島か他のどこかにベル・タワー(鐘楼)を設計すること」と語り、日米の血が流れる者として広島で「平和共存の夢」を託す仕事がしたい、という希望を丹下健三に一度ならず伝えていた。
 平和大通りの二つの川にかかる「平和大橋」「西平和大橋」のことで、丹下健三が、建設省の責任者から「平和公園の入口になる橋なので、欄干だけでも平和記念資料館や公園と違和感のないものにデザインしてみてくれないか」と頼まれたとき、丹下はイサム・ノグチにお願いしようと内心考え、その後再来日したイサムを浜井市長に引き合せたのが、イサムの願望が欄干デザインとして生まれるきっかけだった(1951年)。その時、イサムは「単なる平和運動ならば利用される恐れもあるが、丹下さんのプロジェクトならば、本当にフランクな気持ちで仕事ができる」と思い、丹下の方も「世界のピース・センターとしては、大仏殿などを作るよりどうしてもイサム・ノグチの芸術を取り入れたい」と望んでいた。
 イサムは、その足で丹下健三と広島に向かい、歩くのが容易ならない中に踏み込み、ときどきうめくように「ひどいですね」とつぶやいた。
 広島訪問から1ヵ月後、ロサンゼルスで欄干デザインにとりかかり、約20日後、東京の丹下健三研究室宛に送られてきた欄干設計図は、従来の橋の欄干イメージとは大きく異なっていた。そして、東と西の橋ではデザインの意味が大きく異なっていた。イサムは、「6年前のいまわしい雰囲気が地面に横たわっている。しかしその地上に生活する民の顔は大きな希望に燃えてたくましい。この二つが広島の姿である。」という広島訪問で受けた印象から、平和大通りにかかる二つの橋を「生と死」をテーマにデザインした。
 東側の「平和大橋」の欄干は太く、見るからに強い。空に向かって、そるように力強くはねあがらせた末端部分は、まるで太陽熱を吸収するソーラー反射鏡のように、球体を半分に切った形である。昇る太陽を象徴するこの橋を、イサムは最初「生きる」と名づけた。だが、欄干が完成する頃に黒沢明監督の映画「生きる」が封切りとなり、この映画の、ガンにおかされて死を目前にした男の物語と意味を取り違えられないように、生命を表す「つくる」に改題した。
 西の「西平和大橋」の方は、別離を意味して「ゆく」と名づけ、こちらは東側より細めの欄干を二本並行させ、また末端部分を和船のへさきの形とした。原子爆弾で死んだ人たちの心は神様のところへ行ったという意味で、すなわち「ゆく」は「逝く」を意味した。

 このように欄干デザインが生まれる背景を見ますと、イサム・ノグチが丹下健三と戦後の荒廃した中で、人々の心を癒し、生まれるものへの希望と、死したものへの悲しみを訴え、世界にアピールしようとした、まさにヒロシマの心を表現したものであり、芸術そのものと感じざるを得ません。
 今後、この二つの橋の架け替え時には、今回の意見募集を踏まえ、イサム・ノグチが設計した現欄干のデザインコンセプトを継承し、コンペを実施するということのようですが、イサム・ノグチの願い、訴えがヒロシマの心を表す「芸術」であり、街づくりの顔になっていることを基本に、継承作業にとりかかっていただきたいと思います。
 1988年、イサム・ノグチは集大成として、札幌「モエレ沼公園」の設計に着手し、同年12月30日に逝かれましたが、1998年に完成した同公園を是非訪れていただき、イサム・ノグチが常に表現していたという「人間的でありたいという願い」を十分理解していただきたいと思います。
 市民意見だけに偏っていたのでは、市長の責任を市民にかぶせるだけの責任転嫁になりかねません。コンペの基礎資料をつくるのであれば、芸術的価値を踏まえて、どうしようとするのか、まず基本的な考え方を整理すべきです。
 街づくりと芸術の観点から、平和大通り新世紀リニューアルについて気にかかる点を述べたつもりですが、皆さんはどう思われますか。



  (追伸1)

 NHKテレビ『その時歴史が動いた』という番組を見ました。
 小栗上野介の生涯を扱ったものでしたが、彼は激動の幕末にあっては勘定奉行等の役職を歴任し、日本の行く末を憂いながら非業の死を遂げた人物です。
 勝海舟と渡米し、まず、大量の金がアメリカに流出しているのを阻止し日本経済を救うため、大国アメリカを前に一歩も引かず「ノー!」を突きつけ、金貨交換比率の改正に成功しました。
 また、アメリカで見た西洋文明の力に驚嘆し、日本の近代化への熱い思いから、帰国後破綻に瀕した幕府財政の中、反対勢力を押し切り、無駄を排する改革を断行しながら巨額の予算を要する造船所を横須賀に建設しました。その造船所は「幕府が滅びても蔵付きの家を残す」という小栗の残した言葉どおり、明治以後日本の諸産業の礎となったわけです。
 小栗が死んで37年後、日露戦争の日本海海戦では無敵といわれたバルチック艦隊を打ち破り勝利を収めましたが、この戦争の英雄東郷平八郎は自宅に小栗の遺族を招き、「この度の海戦において勝利を収めたのはあなた方の父上が横須賀造船所を日本のため建設しておいてくれたおかげです」と感謝を述べ、「仁義礼智信」の5文字の書を贈りました。
 広辞苑によりますと、
 「仁」は、自己抑制と他者への思いやり、
 「義」は、道理、条理、人間の行うべきすじみち、
 「礼」は、社会の秩序を保つための生活規範、
 「智」は、ものごとを理解し、是非・善悪を弁別する心の作用、
 「信」は、欺かないこと、言をたがえないこと、
とあります。
 これらの言葉は、彼の人生の源であり、人格を表したものであり、また、彼の生き様を語り尽くしているものだと思います。為政者として決して忘れてはならない言葉だとは思いませんか。

  (追伸2)
 貨物ヤード跡地利用構想の問題は、当初は広島市に何が必要なのかを議論していましたが、いつのまにか屋根を架けるか否かの議論に変わり、結果的にはこれまでの議論が無意味な形で終焉を迎えようとしています。
 つまり、皆に愛される美しい花の議論ではなく、事業を行う上での基本である土地の取得の目処が立っていない、大地がないのにその上に咲く花ばかり夢見ていたという思いです。
 その上、大リーグ並の本格的な天然芝の球場で、まさに大リーグ観戦ができるかもしれないという野球の世界での大きな夢、これらを中心に進められるはずであった広島の活性化の夢まで消えてしまったようで、本当に残念に思います。